徳川家の処分が終了すると、新政府は和宮に政局の混乱や戊辰戦争で延引されていた上洛を願い出るよう促した。和宮は「仁孝天皇陵の参拝と徳川家寛典処分の御礼の為、上洛を願い出たいが、徳川家の経済状況や江戸の市民感情を考えると、こちらからは願い出かねる。適当な名目を立てて、朝廷から上洛を命じて欲しい」と希望した。5月27日に上洛が勧告されると、「徳川家の人々の身の安堵を確認した上で」と一旦は上洛を見合わせ、明春の上洛を企図したが、橋本実麗から明治天皇の東京(7月17日に改称)行幸が終るまでは見合わせるようにと止められる。
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明治2年(1869年)1月18日、和宮一向は東海道を京都へと向かった。2月3日、京都に帰着。聖護院に入り、24日に参内して明治天皇と対面。明年の仁孝天皇二十五回忌までは京都に逗留することが徳川家に布告され、5月19日には京都在住の沙汰があり、聖護院の屋敷が栄御殿と改称される。明治3年(1870年)1月25日、和宮は念願だった仁孝天皇陵への参拝を果した。
和宮はその後も京都に在住したが、先年の東京行幸(事実上の遷都)後、東京に住まう天皇や橋本実麗らの勧奨もあり再び東京へ戻ることを決め、明治7年(1874年)7月に東京に戻る。麻布市兵衛町にある元八戸藩主南部信順の屋敷に居住し、皇族や天璋院・家達をはじめとした徳川一門など幅広い交流を持つようになった。しかしこの頃より脚気を患い、明治10年(1877年)8月、元奥医師の遠田澄庵の転地療養の勧めがあり箱根塔ノ沢温泉へ向かった。転地療養先では地元住民との交流も行われたという証言がある [7]。
程なく明治10年9月2日。脚気衝心のため療養先の塔ノ沢で死去した。32歳という若さであった。当初、政府は葬儀を神式で行う予定であったが、和宮の「家茂の側に葬って欲しい」との遺言を尊重する形で、仏式で行われた。墓所は東京都港区の増上寺。